豊橋の農業の歴史を紹介しています。


豊橋西部地域の米づくりの変遷
 
 明治中期の水稲肥料は大豆粕が主に使われていたが、しだいに金肥を使うようになっていった。そこで、土地改良の上からも堆肥の施用が奨められることになり、とくに明治41年、第十五師団が設置されてから、馬糞を材料とする厩肥(きゅうひ)の造成が行われた。
 また田植の移植についても、やや乱雑で、正条植が少なく、また挿秧期も一般に遅い傾向にあったので、適期に植えることや正条植が実施されていった。
 明治33年ごろの稲の品種は、神力、白笹、白勇名、四国糯、信州坊主、尾張坊主などが栽培されたが、大正時代には赤笹、白笹、神力、モッコ糯、昭和に入って愛知旭、旭糯、千本旭、栄神力、豊年旭などが栽培されるようになった。(杉浦一平氏記述より)
 なお、明治39年1月には、愛知県から協同苗代を設置するよう通達があって、各地で設置され、苗代の技術向上がはかられた。
 くだって、昭和3年からは、この年を初年度とする5カ年計画で、多収穫競技会が開催された。これは、稲作において、その5年間、地力を増進して多収をはかることを競ったもので、この結果、最優秀となった渡辺儀平氏(吉田方)などの例では、5カ年の平均反収は3,887合(銘柄・旭糯)で、増収量は2,145合という抜群の成績をあげた。
「豊橋市西部農協のあゆみ」より