豊橋の農業の歴史を紹介しています。


繭の町・豊橋
 
 豊橋地方の養蚕は、明治の初めごろまでは、わずかに自家用として生産されているに過ぎなかった。しかし、明治15年以降、町中に製糸業者がふえるにつれ、農家の養蚕への意欲も高まった。
 この製糸業界の発達にともない、農家では現金収入の唯一の道と養蚕熱が高まり畑の大半は桑畑になった。こうした養蚕農家のために、市中に養蚕道具を売る商店も出現した。
 養蚕組合も各地に輩出し、品種改良、桑園の改善、品評会並に講話会の開催、必需品の共同購入のあっ旋、蚕種の統一、生産繭の共同販売のあっ旋などが進められていった。
 一方、製糸業者の繭購入のため、明治19年には豊橋の札木に繭問屋が生まれて、繭の売買が行われるようになり、さらに明治30年には豊橋の関屋に繭市場が開設され、市場取引がはじまった。
 こうして蚕糸業が豊橋産業界の王座につき"繭の町・豊橋"といわれるようになった。
 昭和12年6月には、"蚕都"といわれた豊橋に乾繭取引所が設立された。開所間もなくして日中事変が勃発したが、戦局の長引くとともに、蚕業統制法が公布され、取引所は昭和16年7月、開業4年にして閉鎖となった。
「豊橋市西部農協のあゆみ」より