豊橋の農業の歴史を紹介しています。


農業集落
 
 わが国は瑞穂の国と称し、農は国の本也と信じ、自国民の食糧の自給生活に農家は励んだ。西洋文化が入り込むまでは、農業立国として産業報国の熱意に燃えて農業を守った。農家に生れた者、等しく二、三男は別として、農業の跡取りとしての自覚は固く、農業を継ぎ、日本農業を支えてきた。
 農業集落は一般には農耕を生業とする人の住む集落、社会をいう。
 しかし、その成立過程、立地条件、生産関係、社会経済との関連性あるいは、地域、時代や民族、その他諸々の事情により、いろいろな形態や性格をもっている。
 歴史的にみて原始時代、古代、中世、現代の農村を考えればその変化も大きいし、現代の農村でも、広く見渡せば、 原始的村落から半中世的農村、そして機械化された大農経営とさまざまなものがみられる。
 近世の「村」は、封建支配の末端組織であって「国」や「郡」はこの時代にも地理的名称として残っていた。しか し政治的にはあまり意味をもたなかった。国役金を賦課するとか、幕府のお触が発せられる時には、国は行政単位としての意味をもったわけである。これに対して「村」は当時の支配体制の基礎単位であって、村単位の農民支配ということが、近世の支配方式の一大特色であった。自然にできた既存の村落を土台にして、それを支配しやすいような形に組織したものである。
 そして、村毎に、検地と人別改めが行なわれ、村役人と、五人組が編成された。
 それは年貢及び租税の収納や、村の治安を保ち、幕府や藩のお触の徹底を図るためであった。
 江戸時代、各街道宿駅には、常に公用者のために 人足と馬が用意さ れていた。しかし、公用旅行者が多くなると、用意してある人馬だけでは足りなくなり、附近の村々からも援助させた。これが助郷である。しかし、余分な日当はもらえなかったし、多く出れば百姓がおろそかになった。
 小百姓はたび重なる飢饉や、大水に苦しめられ、重い年貢や助郷にかり出されて、年エ貝も納められず、助郷の費用もまかないきれず、お上よりの拝借金や、諸方から借入金をして生活をつづけた。
「豊橋市南部農協二十年史」より